1993/6/19
A history of the electric power industry andthe electric technology in Japan
− From its beginning to the prewar 1942 −
Prof. Tetsuo Fujimura
Reference: Prof.FUJIMURA Interview of IEEE
1.わが国の電気事業の発足
1879年(明治12年)、エジソンは木綿糸を特殊な方法で炭化してフィラメン
トをつくり、高真空のガラス管に封入して電球の長時間点灯に成功した。彼はこ
の他、強力なパワーを持つエジソンダイナモやソケット、スイッチ、ヒューズな
どの配電器具や配電方式も開発して、みずから1880年、エジソン電気会社をニュ
ーヨークに設立した。こうして世界の電燈事業が本格的にスタートした。
その僅か2年後の明治15年3月に東京貯蔵銀行頭取矢嶋作郎らは東京電燈会
社の設立願いを東京府に提出した。その後、別に電燈会社の設立を考えていた大
倉喜八郎らと合同して同年12月に設立願いを再提出し、翌16年2月に認可された
。矢嶋と大倉の合同の労をとったのは渋沢栄一であった。認可を受けると直ちに
矢嶋作郎を社長として東京電燈会社が設立され、わが国の電気事業が始まった。
このことからも私たちの先輩は近代文明を取り入れるのにいかに積極的であ
ったかがうかがえる。
東京電燈では事業を始めるにあたり、民衆に電気の灯のすばらしさを認識さ
せるために、明治15年11月、銀座2丁目の大倉組の中に設けられた仮事務所の前
に高い柱を立て、その上に2000燭光の大アーク灯をともして宣伝した。これまで
ローソクやアンドンの光しか見たことがなかった民衆は、初めて見る電気の強烈
な光にど肝を抜かれた。早速「東京銀座通電氣燈建設之図」と題して東京名物の
錦絵に取上げられた。その絵の中には次のようなに記述されている。 「電気燈
ハ米国人ノ新発明ニシテ他ノ火ヲ点ズルニ非ズシテ一ノエレキ器械ヲ以ツテ火光
ヲ発シ其光明数十町ノ遠キニ達シ恰モ白昼ノ如シ実ニ日月ヲ除ク外之ト光ヲ同ス
ルモノナシ」。
[図1] 東京銀座通電氣燈建設之図(東京電力(株)提供)
このような華々しい宣伝で発足したわが国の電燈事業も、一般の人々の理解
が得られず維新後の経済混乱もあって思うように資金は集まらなくて自前の発電
設備を持つことはできなかった。仕方がないので東京電燈では、当初は自家用設
備の建設を請け負っていた。明治18年頃からわが国はようやく不況を脱し、綿糸
紡績業や鉄道事業などが興ってきた。明治19年になって予定の資金も集まり、市
内に自前の電燈局(明治15年に発電所に改称) を設け、明治20年1月から電力供
給を始めた。
東京電燈の成功に刺激されて、明治20年から全国各地に次々に電燈会社が設
立されていった。この中部地区の名古屋電燈の設立願いは、東京電燈に続いてわ
が国では2番目に提出されている。しかしながら会社の設立は少し遅れて5番目
となった。明治21年から明治24年までに設立された電燈会社は設立順に、明治21
年に神戸、明治22年に大阪、京都、名古屋、明治23年に横浜、共同、深川、明
治24 年に品川、帝国、熊本、北海道である。明治29年には電灯会社は33社に達
し、明治20年代にわが国の電灯事業の基礎が築かれた。しかし、この頃に電灯の
恩恵に浴したのは大都会のごく一部の人々で一般庶民にはまだ高嶺の花であった
。
2.電灯事業草創期の若者の活躍
明治維新をはじめ、明治時代の
新しい日本を創るのに20代の若者
の活躍が随所に見られる。電気事
業のスタートに当たっても若者が
大いに活躍した。
わが国の電気事業の草創期の最
大の功労者は藤岡市助である。彼
は1857年に山口県岩国市に生まれ、
明治9年(1876年)、工学寮電信
科に入学した。工学寮は明治10年、
工部大学校になった。明治11年3
月25日、工部大学校で催された中 [図2] 藤岡市助
央電信局開設の祝宴の席上で英国から派遣されて来日したエルトンの指導の許
にアーク灯がともされたときに彼は学生の一人として参加した。公の席上でとも
されたわが国最初の電気の点灯を記念して、3月25日が電気記念日に制定された
。明治14年、彼は大学を卒業すると間もなく母校の助教授になり、明治17年には27
才の若さで教授に昇進した秀才であった。
彼は学生時代から電灯事業の将来性に着目し、財界人に電灯会社の設立を説
得して廻った。その中に前述の矢嶋作郎がいた。矢嶋は藤岡の意見に賛同して東
京電燈の設立に乗り出したのである。
東京電燈の事業が本格的にスタートした明治19年に、彼は矢嶋の 懇請に応
じて工部大学校の教授という名誉ある職をなげうって東京電燈の技師長に就任し
、電力技術の第一線に立って陣頭指揮をした。また明治16年、同郷の三吉正一に
わが国最初の電気機器製造会社三吉工場を創立させ、自分は設計、製造の指導に
当たった。彼が考案したアーク灯用発電機は国産第一号の発電機であった。
電灯の普及の隘路になっていたのは、電球が輸入品で値段が高いことであっ
た。市助は英国から電球製造機を購入し、明治23年、三吉正一と国産電球製造会
社白熱舎を設立した。明治31年にはこの会社の社長に就任し、社名も東京電気と
改め、ここで作られた「マツダランプ」は全国津々浦々に普及した。東京電気は
昭和13年、重電気製造の芝浦製作所と合併して、総合電気メーカ、東京芝浦電気
(現東芝)となった。
電球はどのように発達したのであろうか、それを示すのに電球の5大発明と
言われているものがある。
(1) 1879年(明治12年)エジソンの実用的な白熱電球の発明
(2) 1910年(明治43年)クリージのタングステン電球の発明
(3) 1913年(大正2年)ラングミュアのガス入り電球の発明
(4) 1921年(大正10年)三浦順一の二重コイル電球の発明
(5) 1925年(大正14年) 不破橘三の内面艶消電球の発明
このように電球の5大発明の内、2つは日本人の発明である。しかもこの二人
はいずれも東京電気の関係者である。私達の先輩は単に外国に技術を真似るだけ
でなく、創造的な技術開発もおこなってきたのである。
エジソン電球
(東芝科学館蔵:復元)
[図3] 初期の電球の変遷
この中部地区の電気事業の草創期にも若者の活躍があった。
士族救済のために明治政府は10万円の勧業資金を愛知県に出した。これでど
んな事業を興すかが議論になった。有力であったのは当時勃興していた養蚕や紡
績の事業であった。その中で愛知県の衛生課長であった丹羽精五郎は、電燈事業
が適切であることを主張した。彼の甥に丹羽正道という若者がいて工部大学校の
電気科に学んでいた。たまたま津市で日赤三重県支部の総会が開かれ、そのアト
ラクションとして出席者に電燈を点灯して見せることになった。これを担当した
のが学生の丹羽正道であった。その帰りに名古屋でも点灯してもらいたいという
要請があったので、彼は明治19年10月26日、栄町にあった、名古屋区役所の会議
室で、移動式の発電機によって白熱灯40個とアーク灯1個を関係者の前で灯した
。これを見て電灯への関心が一挙に高まり、勧業資金で電灯事業を始めることが
決まって名古屋電燈が設立されたのである。正道は明治20年7月に大学を出ると
創立されたばかりの名古屋電燈に入社し、その年の10月には叔父の精五郎と一緒
にアメリカにわたって、エジソンに会って電燈事業への助言を得ると共に電気事
業を視察し、電気機器を購入して帰国した。正道は名古屋電燈の技師長として活
躍し技術の基礎を築いた。
わが国最初の電気事業用の水力発電所、京都の蹴上発電所の建設に際しても
新しい国創りに情熱を燃やした若者の活躍があった。
明治14年、京都府知事に就任した北垣国道は、都が東京に移ってからさびれ
いく京都をなんとか繁栄させたいと腐心していた。彼は琵琶湖の水を京都に引き
入れて産業を興すことを考えていた。
これを具体化したのが、当時まだ工部大学校の土木科の学生であった田辺朔
郎である。彼は逢坂山にトンネルを掘って琵琶湖の水を京都に引き入れ、これを
動力、灌漑、水道、船運、防水などに使うという一大開発総合計画を卒業論文と
してつくりあげた。
この計画を実現するために彼は京都府に就職し、北垣知事と一緒に行動を開
始した。しかし、この計画は大きな壁に突き当たった。 滋賀県にとっては琵琶
湖の水は貴重な財産である。大阪もまた琵琶湖の水を淀川を通して飲料水や工業
用水などに広く使用していた。その大切な水を勝手に京都に持って行かれては叶
わないと滋賀県、大阪府、さらには大阪を中心とする関西財界の猛烈な反対に会
ったのである。
技術面においては、内務省が水利や土木技術の指導者として雇っていたオラ
ンダの技師が「逢坂山にトンネルを掘るということは技術の進んだヨーロッパで
も難工事である。それをまだ技術も未熟な日本でやるなど無謀という他はない」
と反対した。
このような反対に遭遇して、北垣は政界、財界を奔走し、田辺は技術面での
説得を精力的に進めた。二人の努力が実を結んで明治18年1月、政府の認可が下
りて明治18年6月に工事に着手した。明治20年7月、トンネルは開通し、明治23
年4月に琵琶湖の水は京都に流れ込んだ。これが琵琶湖疏水である。
最初は疏水の流れで水車を廻して直接動力として使用する予定であったが、
工事中にアメリカで水力発電が盛んになったことを知り、急遽、水力発電に切り
替えることにした。田辺は明治21年にアメリカに渡り、水力発電の現場を視察す
ると共に設備の購入に当たった。 彼が視察したアメリカの最新水力発電所のア
スペン発電所は 150馬力であったが、京都に計画したのは2000馬力の発電所あっ
た。最初は90馬力2台で出発したが、明治39年には計画通り2000馬力の水力発電
所を完成した。当時の若者の気宇は誠に壮大であった。
わが国の電気関係の若者を育てるのに大きな功績があったのは、イギリス政
府から派遣されて明治6年から6年間にわたって工部大学校で教鞭を執ったエル
トンである。彼は大変真面目な教育者で、厳しい反面、愛情を持って学生に接し
、単なる暗記や模倣を戒め、しっかりした学問の基礎を身に付けさせ、その上に
立った独創性を重んじた。彼自身も日本のような僻地にあっても研究を続け、そ
の成果は本国でも高く評価された。帰国後はロンドン中央大学の教授に就任し、
ロイヤルアカデミーのフェローに推挙され、英国電気学会の会長も勤めた。この
ように、彼は本国でも第一級の学者であり、また教育者でもあった。このような
人をわが国の電力の草創期に迎えたことは大変幸せであった。
明治時代の若者は新しい国を創るのは自分達であるという使命感と情熱に溢
れていた。また彼らに大きな活動の場を与えた年輩者の度量も大きかった。そし
て彼らはその期待に充分応える成果を挙げている。私達は今どれだけ若者達に大
きな活躍の場を与えているであろうか。現在の若者の無気力を云々する前に、そ
の育成に当たっている私達年配者は大いに考えるべき点があると思う。
3.電力事業の発展
電気が動力として最初に使用されたのは、明治23年春、東京の上野公園で第
3回内国勧業博覧会が催された時に 400mの長さの軌道の上を 500V15馬力のモ
ータを取りつけた22人乗りの電車を走らせた時である。
[図4] わが国最初の電車
続いて同年末に浅草の12階建の凌雲閣にエレベータが取りつけられ7馬力の
モータが使用された。残念ながらこのエレベータは故障が多く、間もなく運転を
取り止めた。
明治25年には朝日新聞が新聞印刷の輪転機にモータを使い始め、各新聞社も
これに続いた。電気が動力にも段々広く使用されるようになったのは明治30年代
に入ってからである。
また、この頃からわが国は軽工業から重工業、化学工業へと進み始め、電力
需要は一段と増大した。電灯の取付け戸数は、明治30年の14万灯から大正2年に
は 615万灯になり15年間に44倍に増えた。電灯の普及率から見ると明治40年2%
であったものが,大正元年16%、大正9年58%、大正14年には81%にまで拡大し
た。動力への電力使用量も明治40年に12,000kWが大正2年には185,00kWと5
年間に15倍も伸びている。こうして発電容量は明治40年、24,000kWあったが大
正14年には531,00kWと20年間に22倍に達した。
大正時代に入って電気湯沸、電気風呂、電気布団が作られるようになり、そ
の普及を図るために大正13年には家庭電気普及協会が設立された。さらに大正の
終わりから昭和の初めにかけてモダンな家庭電化製品として電気アイロン、電気
扇風機、
[図5] 電化率と汽化率の変化 ラジオが現れ、昭和5、6年には電
気冷蔵庫、電気掃除機、電気時計もわが国で作られるようになった。
また工場では電気溶接、電気炉も使用され始め、電気の活用の幅は一層広が
っていった。
しかし、電気事業はこの間、順風満帆に発展してきたのではない。幾多の試
練も経験した。
電灯事業が発足して間もなく、明治24年1月に帝国議事堂が火事で焼失した
。その原因が漏電と発表されたので民衆の中に電気は危険であるという意識が広
まった。これに追い打ちをかけるように宮内庁では皇居での電気の使用を中止し
てしまった。そのようなこと から契約破棄が相次ぎ、電気事業は存亡の危機に
立った。 このような事態に直面して電灯会社では電気の安全確保とその
啓蒙に必死に乗り出した。例えば、中部地区では市内の千歳座にこの地区の名士
など2千数百人を集めて「電気燈大実験」を催し、たとえ思わぬ故障があっても
保護器によって火災には到らないことを実演で示した。このような努力によって
電気事業は信頼を回復し、明治26年には皇居でも電灯の使用が再開された。
もう一つの障害はガスとの対抗であった。中部地区では明治40年に名古屋ガ
スが事業を始めた。炭素電球はまだ薄暗らかったが、ガス灯はガスマントルの発
明によって一層明るくなり、急速に普及し始めた。これによってあかりを電気か
らガスに切り換える人も多数出てきて、電気とガスの競争が激化した。余分なサ
ービス競争にまで発展し、電気事業は危機に立った。間もなくタングステン電球
が発明されて電灯も明るくなり、発光効率も上がって電気代も安くなったので、
再び電灯は息を吹き返し危機を脱した。
[図6] 初期の電化製品(東芝科学館蔵)
4.水力発電の発達
電気事業の当初の発電方式は、石炭を燃料として蒸気を発生し、その力でタ
ービンを廻して発電する火力発電であったが、欧米では電気事業の発足当初から
一部で水力発電が行われていた。
わが国では明治21年、宮城絹糸紡績が動力用の水車で5kWの直流発電機を
廻して所内の電灯用に供したのが最初である。わが国の電力事業用の最初の水力
発電所は明治24年に運開した前述の京都の蹴上発電所である。明治27、28年の日
清戦争後産業が一層発達して燃料の石炭が高騰した。これが水力発電の発達をさ
らに促した。
わが国は降雨が多く、水力発電に適した急流を持つ河川に恵まれている。そ
のために明治30年代から運転コストが安い水力発電に大きく傾斜し、明治40年代
には容量が1万kWを越える水力発電所が中部山岳地帯を始め各地に建設される
ようになった。 このようにして、大正元年には水力発電設備容量は火力に追い
つき、以来、昭和30年代の大容量火力発電時代を迎えるまで水主火従時代が続き
、水力発電が約50年間にわたってわが国の電力の主役になった。
[図7] わが国の発電電力の増加
山奥の水力発電所から野を越え山を越えて電気が里の需要地まで送られてく
る。その間には風当たりの強い山の尾根や着雪、着氷地帯を通らなければならな
いことがある。一般にわが国の山は険しいし、秋にはしばしば台風に襲われる。
このような過酷な条件を克服して送電線は建設されている。こうして、水力発電
の発達は、わが国の優れた送電技術を生み出した。
5.送電電圧の上昇
電気事業が始まった当初は、発電所は町の中に作られ、そこから近くの需要
家に 100〜 200Vの低圧で送られていた。この方式では、電力供給範囲が広くな
るに従って小さい発電所を沢山作らなければならないので、発電効率も悪くまた
不経済である。そのために大きな発電所を作って、そこから広い範囲に電気を供
給する方式がとられるようになった。その最初が明治29年にできた浅草の集中発
電所である。ここから遠くに送るのに2〜3kVの高圧が使用された。 水力発
電所は町からかなり離れた河川の上流に作られる。この電力を町に送るには更に
高い電圧を使用した方がロスが少なくなり有利になる。水力発電の発達と共に送
電電圧は段々高くなっていった。 明治32年(1899年)、郡山絹糸紡績が猪苗代湖
の水を利用して沼上発電所(300kW)を建設し、その電力を22.5km離れた福島県郡
山町に送るのにわが国で最初の特別高圧である11kVを採用した。同じ頃、広島
水力電気も黒瀬川に広第一発電所(750kW)を建設し、広島まで送電するのに同じ
く11kVを採用して、わが国の特別高圧送電時代が始まった。
明治41年、東京電燈が山梨県の桂川に駒橋発電所(1万5千kW)を建設し、こ
の電力を76km離れた東京に送るのに55kVを採用した。11kVからいきなり55k
Vへの昇圧は当時としては大英断であった。 続いて明治44年、名古屋電燈が岐
阜県の八百津発電所(1万kW)の電力を名古屋まで44kmを送るのに66kVを採用
し、さらに宇治川電気が宇治発電所(2万5千kW)から大阪まで47km送るのに77
kVを採用して、送電電圧はさらに高くなっていった。
大正3年(1914年)猪苗代水力電気が猪苗代第一発電所(3万5千kW)を建
設し、東京の田端変電所まで 226kmを送るのに 110kVを採用して、わが国で本
格的な高電圧長距離送電が始まった。この送電線は当時としては世界でも3番目
の規模のものであった。
大正時代に入るとわが国の経済は一層発展して電力需要は増大し、中部山岳地
帯を始め各地に水力発電所が作られるようになった。
大正12年に信濃川支流の発電所群の電力を集めて京浜地区に送るために、京浜
電力でわが国最初の154kV
[図7] 送電電圧の上昇の推移 の送電線、京浜線(後に甲信線と改称
)が建設された。続いて同年、木曽川水系の発電所の電力を大阪に送るために大
同電力が第一大阪線を建設した。その後、昭和5年まで毎年1〜2本づつ 154k
Vの送電線が建設された。 送電電圧 154kVは、昭和27年、 275kV送電が始
まるまで約30年間にわたって、わが国の最高送電電圧の地位を保った。
154kVの次の電圧として 220kVが考えられ、昭和13年からその採用の検討
に入ったが国内では戦前には実現しなかった。
当時わが国の支配下にあった満州や朝鮮の大陸には、内地とは桁違いに大き
な水量を持つ河川がある。その中の鴨緑江や松花江などでわが国の技術により世
界有数の大規模の水力発電がおこなわれ、その大電力を送るのに 220kVが使用
されて、わが国の超高圧送電技術は外地で花開いた。
6.電気機器・機材メーカの誕生
わが国の電気事業や電力技術の発展は、電力会社を中心として関係する各メ
ーカや工事業者などが力を合わせて努力してきた結果である。ここでその全てを
紹介することはできないが、2、3の電気機器・機材メーカの生い立ちを簡単に
紹介する。
わが国で最初に電力用の機器を製造したのは、既に紹介したように明治16年
に三吉正一が設立した三吉工場である。この工場では、明治26年には単相2kV30kW
の交流発電機を製造している。
三吉工場は、わが国の草創期の電気機器の国産化に大きく貢献したが、経営
基盤が弱く、明治30年の不況に遭遇して工場閉鎖の止むなきに到った。しかし、
この工場で電気機器の設計や製造を学んだ若者達は、各々独立して電気機器の発
展に尽くした。その中には重宗芳水がいた。彼は岩国市の出身で、明治20年、14
才の時に志を立てて上京し、同郷の先輩が興した三吉工場に就職し、勤務の傍
ら工手学校に学び、21才の時にはこの工場の電灯電力機械部の責任者に抜擢され
た。明治30年、三吉工場閉鎖に際し、部下数人と24才で独立して明電舎を設立し
た。
石川島造船所もわが国の電気機器製造の草分けであった。石川島造船所は、
嘉永6年(1853年)水戸藩主徳川斉昭が隅田川の河口の石川島に建設した造船所
から出発している。この年にアメリカ東インド艦隊提督ペルリが軍艦4隻を率い
て浦賀沖にやって来て、わが国に開国を迫って幕府を慌てさせた。その時幕府は
、わが国も大型船を作らなければならない、と水戸藩に命じて建設させたのがこ
の石川島造船所である。その後、明治9年に民間に貸与され、明治26年に払い下
げられて社名を石川島造船所とした。明治25年に東京電燈に初めて発電用のター
ビンを納入して電気産業に参入し、明治29年、浅草集中発電所の第1期工事には
ボイラ8基、タービン6基、200kW 発電機4基を納入した。このように石川島造
船所はわが国の草創期の電気機器の有力メーカであったが、電気機器だけでなく
一般の機械類も製造しており、段々一般機械類の受注が増えてきた。後で紹介す
る芝浦製作所でも電気機器と一般機械類を製造しており、こちらは電気機器の受
注が増えてきた。そこで、予てから関係が深かった両社は相談の上、芝浦製作所
は電気機器を中心に、石川島造船所は一般機械類を中心に事業を進めることにな
り、石川島造船所の電気機器の製造は芝浦製作所に統合された。
芝浦製作所は、田中久重が明治8年に設立した電信機の製造工場田中工場に
端を発している。その後、工場も繁栄して規模も拡大されて、一時期はわが国最
大の工場になったが、後に経営が苦しくなり、明治26年に三井銀行の管理下に入
り、社名も芝浦製作所に変更し、電気機器の製造に乗り出した。明治33年、経営
は黒字になり、明治37年に三井銀行の管理から独立した。昭和13年に東京電気と
合併して東京芝浦電気になり、昭和59年に東芝と社名を変更した。
東京電燈の送電主任としてわが国最初の55kV送電線の建設責任者であった小
平浪平は、わが国の電気機器が殆ど輸入品であることを憂えて、みずから電気機
器の製造に乗り出すために、明治39年、久原鉱業所に入り、工員僅か5名の日立
鉱山の電気機器の修理工場から出発した。その後段々事業を拡大して、大正9年
に独立して日立製作所となった。
三菱グループの創始者、岩崎弥太郎は、明治17年、工部省長崎造船局を借り
受けて長崎造船所を設立した。さらに明治20年、この払下げを受けて三菱造船所
とした。明治31年、三菱造船所の中に船舶用の電機工場が設けられた。大正10年
に長崎と神戸の電機工場が一緒になって独立し、三菱電機が設立された。
ドイツから来日したジーメンスの技師ケスラーは古河電工の創始者古河市兵
衛と懇意になり、両社が合弁で大正12年に富士電機を設立した。富士の名は古河
とジーメンスの頭文字から付けられた。 住友電工の歴史は古く、その端を戦
国時代に発している。1572年、住友家の先祖は大阪で銅精錬や銅細工の事業を始
めた。徳川時代には銅山、銅商、両替商として栄え、明治維新後は四国の別子銅
山を開発して事業を伸ばし、明治44年、電線事業が独立して住友電線になり、昭
和14年に住友電工になった。
古河市兵衛は京都の豪商小野組で働いていたが、明治7年、小野組が倒産す
ると独立し、明治10年に足尾銅山を手に入れてこの開発に精力を注ぎ、明治17年
には東京の本所に溶銅所を開設し、さらに日光に電気製銅所を建設し、横浜電線
製造を統合して事業の幅を広げ、大正9年に古河電工を設立した。
栃木県の農家に生まれた藤倉善八は、32才の時に東京に出てきて、日本髪の
もとどりに掛ける装飾品の「根かけ」を作る仕事を始めた。彼は銀座の大アーク
灯を見て電灯事業に興味を持った。後に藤岡市助と知り合い、彼の紐組みの技術
が電線の被覆に活用できることを知り、絹巻や綿巻の被覆電線の製造を始めた。
さらにゴム被覆に力を入れて、明治26年にゴム被覆線の開発に成功した。これを
基に明治34年に藤倉護謨が設立され、明治43年に電線部門が独立して藤倉電線に
なり、平成4年にフジクラに社名を変更した。
芝浦製作所の技師岸敬二郎は、電気機器の国産化を目指していた。そのため
にはがいしも国産化しなければならない。彼はがいしの国産化の夢を日本陶器に
託すことを考え、明治38年、日本陶器を訪ね、がいしの製造を促した。日本陶器
は前年設立されたばかりで本業の西洋食器もまともにできず、大きな赤字を出し
苦境に立っていた。とても新しい事業に着手する状況にはなかった。日本陶器の
親会社森村組の重役会の空気も否定的であった。森村組の総帥、森村市左衛門も
「二兎を追う者は一兎も得ず」になることを心配した。しかし、岸は諦めず日本
陶器に電気事業の重要性を説得し続けた。それを認識した日本陶器の社長大倉和
親はがいし製造に着手する決意を固め、森村市左衛門や森村組の重役を説得して
がいしの製造を開始した。時に岸敬二郎33才、大倉和親30才の若者であった。大
正9年、日本陶器のがいし部門が独立して日本碍子になった。
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